蘆名公時代に開山され、伊達政宗の仮館、豊臣秀吉の御座所ともされた由緒あるお寺。
会津の名将・蒲生氏郷の墓があることでも有名。桜の季節には花見客が訪れるなど、市民に愛されるお寺です。
宗 派
臨済宗妙心寺派
略縁起
後宇多天皇(ごうだてんのう)時代の弘安拾年(1288年)、宋・西蜀(中国・四川省)より帰化した鏡堂覚円(勅謚大円弾師)大和尚は芦名氏五代盛宗公の招請外護帰依(招き寄せる事)によって会津黒川(現・会津若松)に興徳寺を建立した。
縁起によると弾師がこの地に来て紫雲(紫色の雲。念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎(らいごう)する雲。吉兆とされる。)のたなびくのを見て、瑞相(めでたいことの起こるしるし)となし、八町四方の地を相して即時に造営に着手し山号(寺院の名前の上に付ける称号)を『瑞雲(めでたいことの前兆として現れる雲)』とし寺号(寺の名称)を『興徳寺』と名づけたと言う。
以後代々、七堂伽藍(僧侶が集まり修行する清浄な場所)・末寺別院・荘園等多きにのぼり、その寺威を天下に誇示し隆盛(勢いが盛んな事)を極め、天下十刹(お寺の格)の一に列せられる等の名誉を受けた。第三十二世 速伝和尚の時、永禄年頭(1558年)に臨済宗妙心寺派となる。第三十六世逸伝和尚の時は特に朝廷より紫衣(古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った)を賜った。
天正十七年(1589年)伊達政宗の進攻により芦名氏は滅し、その際政宗は興徳寺を仮館とし、翌十八年豊臣秀吉公が下向の折、興徳寺を政丁(奥羽仕置の御座所)とした。同十八年、蒲生氏郷公就封後築城改市(黒川より若松となる)、郭内にあった寺社を郭外に移したが、興徳寺はその由緒と格式により唯一郭内に残し、その際二百石を寄附される。以降代々の領主、松平公を経て、明治維新に至るまで寺領二百石を領した。
明治・戌辰戦争の兵火に堂宇(堂の建物)をことごとく焼失した。開山像(大栖元奝(だいせいげんちょう)禅師)は首の部分が焼失からまぬがれ、寺領黒印状(黒印地は大名より黒の印が押された黒印状により所領の安堵がなされたので、その名称がある)数通、その他の寺宝は焼失をまぬがれ現存する。
明治十七年(1884年)五十六世忠室和尚代、現位牌堂を仮立木堂とし建立する。 昭和十四年(1939年)八月、五十七世賢譲和尚代、会津若松市都市計画に基づき道路開設計画を決議(現・神明通り)戦時事業目的と併案され昭和二十年(1945年)八月に道路の開設となった。道路上等の家屋初め、お墓が整理され現墓地に移葬された。
一方、昭和十六年(1941年)大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発の為、由緒ある梵鐘(インドから伝来した日本の寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘)・銅牛・金・銅・仏具類は聖戦完逐(戦争に勝つ事)の為、供出された。(※牛は戦後石像となって再祀される)
昭和三十九年(1964年)五十八世賢一和尚代、本堂を鉄筋コンクリート建にて再建し、落慶大法要は四十年(1965年)四月に鎌倉五山の一つ、円覚寺管長朝比奈源老大師大導師のもと盛大に催した。
昭和41年発行『神明通り開通20周年記念誌』より
所在地
福島県会津若松市中町2−12